江戸時代初期において、日本文化に大きな影響を与えた「本阿弥光悦」をご存じでしょうか?「本阿弥光悦」は、「書家・工芸家・陶芸家・画家・作庭師・出版者・能面打ち」など様々な顔を持った「マルチアーティスト」または「日本のダ・ヴィンチ」と言われた人物です。
特に「書」の世界で活躍した本阿弥光悦の生い立ちや現代に残る作品の価値や価格、彼の子孫はいるのか?などをご紹介したいと思います。
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本阿弥光悦の略歴
ー出典はWikipediaー
本阿弥光悦は、永禄元年(1558年)京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれています。
父光二は、本阿弥家へ婿養子として入り刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業としていました。
当然ながら光悦も刀剣関係の家業に携わったと思われますが、ほとんど記録が残っていないようです。
今日ではむしろ「寛永の三筆」の一人に数えられる書家として、また陶芸、漆芸、出版、茶の湯に携わった「マルチアーティスト」、「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれ名を残しています。
刀剣関係の作品は残っていないにしても、和歌や書の作品を作った原点には、刀の鞘やつばを作る工程には木工、金工、漆工、革細工、蒔絵、染織、螺鈿(らでん)など様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通してあらゆる工芸に対する高い見識眼を身に着けていったのでしょうね。
彼が40歳になったころ、才能があるのに世に出る機会を失している「俵谷宗達」と出会うことになります。
そこで光悦は1602年44歳の時、厳島神社の寺宝「平家納経」の修理にあたり宗達をチームに加えることにより、彼の実力を存分に発揮させる舞台を提供したのでした。
宗達は光悦の期待に十分応え、その後の「風神雷神図屏風」など次々と傑作を生み出し朝廷から一流のお墨付きを授かるのでした。
のちに宗達は自分の若いころを「光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想しています。
やはり出会いは大切ですよね。
出会いによってその人の運命が変わるのですからね。
それから50代になった光悦は、俵屋宗達との合作に取り組むようになります。
天才と天才による共同作品が「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(重要文化財)であり、時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人としての評価を得ることになったのです。
光悦は57歳の時、徳川家康から京都の西北にある鷹ヶ峯に広大な土地を与えられ、居を移しています。
俗世間や時の権力に左右されることもなく、芸術に専念できると悟り、ここに芸術家を集めて、いわば「芸術村」を築こうとしました。
そして、光悦は79歳で亡くなるまで20年余りをこの地で創作三昧の日々を送ることになるのです
光悦の呼びかけに応じた人々の中には、金工、陶工、蒔絵師、画家、筆屋、紙屋、織物屋、はたまた豪商、武士、公家、僧など広範で、かの宮本武蔵も吉岡一門との決闘の前に、この「光悦村」に立ち寄ったそうです。
茶の湯も大いに賑わって、それに関連して光悦は茶碗づくり(陶芸)に力を入れるようになります。
作陶については、楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受けましたが、本職の陶芸家ではない分自由な発想で個性的な茶碗を生み出しました。
そしてこの茶碗の世界でも革新的なことをしています。
それは、茶碗を入れる箱に、自分の署名をしたことでした。
光悦の作品の「不二山」は国産の焼き物で国宝に指定されている二つのうちの一つとなっています。
一体彼はどれだけの才能を持っていたのでしょうかね。
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本阿弥光悦の代表作紹介
:「蓮下絵和歌巻」これも書は光悦、画は宗達による合作
:楽焼「「不二山」国宝であり、長野のサンリツ服部美術館所蔵
:「舟橋蒔絵硯箱」国宝であり、東京国立博物館所蔵
◆重文の陶器には、「雨雲」、「時雨」、雪峰」、「加賀」、乙御前」、「赤楽兎文香合」
◆重文書跡には、
・四季草花下絵古今集和歌巻
・鶴下絵三十六歌仙和歌巻
・始聞仏乗義
・立正安国論
・如説修行抄
・法華題目抄
◆重文蒔絵には、
・芦舟蒔絵硯箱
・舞楽蒔絵硯箱
・子日蒔絵棚
・樵夫蒔絵硯箱
・扇面鳥兜蒔絵料紙箱
・鹿蒔絵笛筒
以上本当に幅広い分野にすばらしい作品を残していますね。
今後はこのようなマルチな才能を備えた人物は、二度と現れないのではないでしょうか。
光悦の作品の価格や子孫の存在は
本阿弥光悦は数々の作品を残していますが、国宝や重要文化財になっている作品以外にもかなり眠っているものがあると思われます。
又、骨董店などでは光悦の作品の鑑定にはとても神経を使うので、仮に間違った鑑定をすれば店の信用問題にもなることから、手を出したがらない業者も多いようですね。
もし、鑑定を依頼するなら、それなりの信用と実績のある業者に依頼したほうがよさそうです。
「開運なんでも鑑定団」に出ている方々は、それなりの眼力と経験豊富な方のようですので、安心できるかもしれませんね。
ちなみに、2003年11月25日にこの番組に持ち込んだ光悦の茶碗には、何と5000万円の値段が付いたそうです。
まだまだ日本のどこかには、こういった光悦の作品が眠っているのかもしれませんね。
もし、あなたが光悦の作品を見つけることができたとしたら、間違いなく何千万、何億という価格になるでしょうから、いっきに億万長者も可能ですね。
そして、光悦の子孫についてですが、東京都にいらっしゃいました。
光悦から数えて16代目の「本阿弥光隆」さんとおっしゃる方で、やはり陶芸を生業としていましたが、残念ながら2009年に62歳という若さでお亡くなりになっています。
ですので、今は17代目の子供さんがいらっしゃるのではないかと思われますが、詳しい情報はとれていません。
わかりましたら、お知らせしたいと思っております。
江戸時代初期に、こんなにもマルチな才能を発揮した人物がいたことに驚くとともに、「第2の本阿弥光悦」が出てくることを期待したいものですね。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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